日記とメモ

岡田勇人の備忘録・活動録

2017.12.17

関西大学東西学術研究所身体論研究班研究例会映画「『For Example』をめぐって」に平倉さんの公演を聴きに行った。参考になった。特に、『For Example』における個体性・具体性と一般的な荒川+ギンズの作品における普遍性・抽象性をめぐる問題について。ここで、荒川と太一さんの演劇が繋がった。これは大きな、大きな収穫。

 

1.子供を「使う」

・『意味のメカニズム』に頻出する「use」の問題から

・「この子を避雷針として使え」

 

2.歴史的前提

・荒川+ギンズにおける例外としての『For Example』

→子供の具体的な身体性、場所の持つ歴史性⇔普遍的な身体の再設計を目指すモダニズムアヴァンギャルド、理念的な身体

・ダンスとしての『For Example』:トリシャ・ブラウン、ゴードン・マッター・クラーク→重力に対する全く違う関係

 

3.酩酊の分析的使用

 

4.身振りの灌漑

・身振りの喩的灌漑/ダイアグラム的灌漑

→喩的灌漑:身振り⇔テキスト・声、ダイアグラム的灌漑:規則性によって立ち現れる「似たもの」

→図、言語、身体の相互陥通

*この時の身振りとは身体のイメージである

 

5.足が彼にサヨナラする

・上半身と下半身の分裂、『意味のメカニズム』におけるティツィアーノの絵画分析

 

6.反響する器

・身振りの周りの空白=器→ブランク?

 

7.共同性

・『For Example』における人称の重なり

I:カメラ=荒川、テキスト=ギンズ、声=ブランという三重性 He:ジョナサン・リーズが浮浪児を演じるという2重性 You:観客

→これらバラバラなものすべてのシステムとしての共同性

 

8.課題

 

 

 

身振りとしての身体(イメージ)と現象学的な身体を荒川+ギンズはごっちゃにしていた気がする。戦略的に?『建築ー宿命反転の場』におけるダンス。来月の発表に備えて。

2017.12.7

急な坂スタジオへ『ドッグマンノーライフ』の稽古を見に行ってきた。稽古は通しを一本やっただけだった。この演劇は来年の1月に再演するから、もう身体に一度落とし込んでいるから、役者たちはミュージシャンがセッションをするときのように、さあやるか、という感じで動かしていた。それは私にはかっこよかった。そしておもしろかった。ワークショップで太一さんから聞いていたことをみっちりと稽古して実装するとこうなるのかと思った。横田さんの動きと発声の奇妙な接合と切断の感じに目を奪われた。太一さんが演じているところを生で初めて見た。他の役者より動きがゆっくりしていて声がよく通って大きかった。塊っぽい。ドタンバタン倒れる。『ホールド・ミー・およしお』を見たときにも感じたが、やっぱり直接的にエロかった。こちらの体が動く。劇中に役者がこの劇の演出家、つまり太一さんについて語るという台詞があって、これは親切だと思った。

 

帰りに横浜から日吉まで歩いた。白楽から妙蓮寺が歩いてて好きだ。

2017.12.4

一昨日、チェルフィッチュの『三月の5日間』リクリエーション版の14:00の回を観に行った。役者の身体を見たかったから、最前列の座席に座った。で頭のセリフを女性が発話することで、登場人物の役者への憑依がよりふわふわして、日常会話に近づいていた。会話という最も日常的な現象を最も抽象的にやっていると思った。例えば、AさんとBさんが会話していて、Aさんが共通の友人Cさんの物真似をして、BさんがあたかもAさんがCさんであるかのようにツッコミを入れる場合、この時AさんとBさんは2人でCさんをその場に作り上げているわけで、発話の主語はその場にいないCさんになったりする。つまり、Aさんが「私」と言ってもそれがCさんだったり、じゃなかったりする。日常会話ではこういう複雑なことがごく当たり前に、頻繁に行われている。なんてこういうことは最近あちこちの批評的言説やら心理学やらで、移人称とかなんとかもっと的確に言われているんだろう。私は『三月の5日間』というのがけっこうガコガコしたつくりだったことが嬉しかった。途中に挟まれるデモの再現シーンや唐突な戦争開始の中継の否応のなさ。それらのシーンは差し込まれるというよりほとんど並列していて、物語にうまく吸収されたりせずにずっと外部の例外状態としてドカドカしている。そもそも見知らぬ男女がラブホで5日間過ごすこと自体が例外状態なはずだが、アフガン侵攻という戦争状態が、その非日常を日常化してしまう。日常と非日常に境目がなくなる。というか、ほんとはもともとない。非日常は常にぐずぐずと日常に陥通している。私と同年代の役者たちの身体はみんなよかった。それぞれの第一声の震えが緊張なのかそうでないのかわからないけど、そういうのも良かった。最初早口で声が小さくてこのままいくのかなと思ったけどそんなことなくて、けっこう鳴ってた。ただ、舞台と客席の高低差がすごくあって、役者たちが宙を見ているように感じられて少し残念だった。すごく舞台が遠いなって思った。観て良かった。

 

昨日は、国立近代美術館に熊谷守一展を観に行った。熊谷の絵は池袋の熊谷守一美術館に何度も観に行っているが、これだけ大きな回顧展は初めて。私は、中期の風景画や裸婦を多く描いていた頃の、訳の分からない熊谷の絵が好きだ。後期の補色の対比効果を使った塗り絵のような絵はかわいいし見ていて楽しいかもしれないが、好きではないと思う。どれだけ多くの探求と技術がこれらの一見ほのぼのしているようにみえる絵に込められているのだとしても、これらは熊谷の技のようなものとしか感じられなくて、実際お茶の子さいさいなのではないか。後期ののっぺりとした色面を見ていると、荒川修作養老天命反転地の人工的な色彩を思い出す。実際、二人の関心は遠くないかもしれないと思う。イメージではなく、現象としての絵画。それに比べて、山のような裸婦(山=裸婦)の絵など見ていると、ピカソの描いた牛の絵など思い出す。金井美恵子は熊谷の描く猫はつまり餅なのだ、と看破していた。複合体としての絵画の物質。絵画の物質は取り替え可能であって、これは言葉と認知の問題でもある。中期の絵は、非常にうまい初期の具象的な画風(実際、熊谷のデッサンはひたすらうまい)や赤と緑の補色による遠近感の喪失した暗みを引きずりつつ、なにか新しいことを模索している感じがあって、異形のものになってる感じがある(《線裸》など)。この時期の絵画を見ていると、作品によって筆の動かし方や絵の具の光沢が全然違って、何がやりたいのか全然わからない。が、ひたすら圧のようなものはある。ところで、《陽が死んだ日》がこんなにあっけらかんとした絵だったかしらと思ったのは、以前、新美で開催されていた大原美術館コレクションでみた時に、あまりの迫力に怯んでしまった記憶があるからだ。ライティングの問題なのだろうか。もしくは複数の版があるのだろうか。わからない。《轢死》は油絵の具の腐食が進んで、不気味なほどに黒く(暗く)なっていた。このまま真っ暗になっていって次第には黒一色の絵になったとしたらすごいな。熊谷守一萬鉄五郎の裸婦は私は好きだ。二人とも身体を描くと変なことになって、身体ではなくなってしまう。熊谷の風景画を見ていると、山に行きたくなった。山の上の稜線から、地形の陰影や隆起を見たくなる。神津島から下田に向かうあぜりあ号から見た、海に突き出る神津島の体格は絶景だった。窓に映り込むとそれはイメージになる。船の甲鈑から直接見たからそれはすごかった。

2017.11.29

2017年9月から俳優・ダンサー・演出家の山縣太一さんのワークショップに参加し、2017年11月22・23日に『ワークショップ』という演劇作品を参加者16名で上演した。私はこの舞台に出演し、戯曲を共同執筆した。私が書いたテキストがこの作品のバックボーン(背骨)になると太一さんに言われ、私も今でもそう思っている。このテキストを公開するが、上演台本は他のワークショップに参加した共同執筆者のテキストとの混合体となった。

 

『ワークショップ』 - Google ドキュメント.pdf - Google ドライブ

 

2017.2.10

造形的な動き

繰り返されるパフォーマンス

動作の反復

見る(まなざし)と動き

肉体の方向と場

言葉と記憶に引きずられる身体←をどうやってダイアグラム化するか

 

これを書いているモノの身体の状態を読むモノが体験することはできない

 

2016.11.30

私ずっと風邪を引いている。治らない。


表参道のルイ・ヴィトンでピエール・ユイグの展示を、ワタリウム美術館ナム・ジュン・パイクの展示を観てきた。


ピエール・ユイグは前回の2作品があまりに良かったので今回も期待して観に行った。やはりおもしろかった。南極探検を基にした調査、オーケストラ・ライヴ、映像、オブジェという複合的な作品。

もうなんと説明すればいいのか要素が多すぎて面倒なのだが、彼の映像は何より音がいいなあと思った。「未知の土地」を探しに南極に探検に行くと、ある島が見つかり、そこでアルビノのペンギンを発見し、その島の地形図を計測してダイアグラム化し、さらにそのダイアグラムを数値化し、セントラルパークでオーケストラを使って演奏させる…。計測器を眺めるペンギンの群れの時間と、「島を聞く」セントラルパークの観客の時間が時空を隔てられながら同期していくかのよう。

ナム・ジュン・パイクは前期・後期とも観たが、何よりテキストがおもしろい。作品はなんといっても冗長で退屈である。

2016.10.13

一昨日、シネマリンで『チリの闘い』を見た。すごい映画だった。先日さいたまトリエンナーレで見た小沢剛の作品の中で、かつてフィリピンではアメリカが作ろうとした原発住民運動によって阻止したということを知って、そのこととチリの民衆による、人民力の組織化がリンクした。フィリピンもずっと独裁政権のようだし。

何がすごいのかと考えて、この映画は記録映画なのだが、そこに移る民衆が映画を超えて革命的なことだと思った。「革命的な」劇映画というのは、エイゼンシュテインを代表に、モンタージュによって、つまり、その映画の力によって革命的な民衆を再組織化しようとする。しかし、『チリの闘い』では、人民によって映画が作られる。映画の推進力が被写体そのものにある。これはドキュメンタリー映画として、間違いなく優れていることだと思った。


今日は、国立近美のトーマス・ルフ展と、山本現代Welcome to the A W E S O M E M A N S I O Nを見てきた。


ルフ展は、おもしろかった。とにかく展示内にテキストが少ないのがいい。ルフ自身が、イメージについて考えるときに、言葉の介在をなるべく抹消しようとしているように思った。イメージによってイメージを考えようとしている。それは最新作に顕著で、文字の形さえも一つのイメージとして、新聞写真に重ね合わされてしまう。中平卓馬と正反対だな、と思った。


山本現代は、品川のはずれの物流センターの上にある。入口は業務用エレベーターである。

小林耕平の映像作品を見た。部屋の中で、様々なものに囲まれてパフォーマンスしている。足元はシーソーのようなバランスゲームになっていて、不安定である。小林の発言も途切れ途切れの不安定なものであり(パフォーマンスは違いを含みながら2度、繰り返される)、この人はバラバラなことをどうやってバラバラなまま行為できるのだろう、ということを考えたいるのだと思った。

宇治野宗輝という作家のサウンドインスタレーションがものすごく楽しかった。ラジオやミキサーなどの家電、車のワイパーや電動ドリル、などのものをギターにくくりつけ、それらがランダムに演奏する。その様子はゴープロで接写で撮影され、リアルタイムでプロジェクションされる。このプロジェクションは演奏と連動してリズミカルなものになっている。音はヘッドフォンを使って聞く。これが重要で、この手のものはその場で音が生成するままほっとかれるインスタレーションが多いような気がするが、この作品の場合、ヘッドフォンによって一つに重なり合った演奏が、ものすごく格好いい。