2017.2.10

造形的な動き

繰り返されるパフォーマンス

動作の反復

見る(まなざし)と動き

肉体の方向と場

言葉と記憶に引きずられる身体←をどうやってダイアグラム化するか

 

これを書いているモノの身体の状態を読むモノが体験することはできない

 

2016.11.30

私ずっと風邪を引いている。治らない。


表参道のルイ・ヴィトンでピエール・ユイグの展示を、ワタリウム美術館ナム・ジュン・パイクの展示を観てきた。


ピエール・ユイグは前回の2作品があまりに良かったので今回も期待して観に行った。やはりおもしろかった。南極探検を基にした調査、オーケストラ・ライヴ、映像、オブジェという複合的な作品。

もうなんと説明すればいいのか要素が多すぎて面倒なのだが、彼の映像は何より音がいいなあと思った。「未知の土地」を探しに南極に探検に行くと、ある島が見つかり、そこでアルビノのペンギンを発見し、その島の地形図を計測してダイアグラム化し、さらにそのダイアグラムを数値化し、セントラルパークでオーケストラを使って演奏させる…。計測器を眺めるペンギンの群れの時間と、「島を聞く」セントラルパークの観客の時間が時空を隔てられながら同期していくかのよう。

ナム・ジュン・パイクは前期・後期とも観たが、何よりテキストがおもしろい。作品はなんといっても冗長で退屈である。

2016.10.13

一昨日、シネマリンで『チリの闘い』を見た。すごい映画だった。先日さいたまトリエンナーレで見た小沢剛の作品の中で、かつてフィリピンではアメリカが作ろうとした原発住民運動によって阻止したということを知って、そのこととチリの民衆による、人民力の組織化がリンクした。フィリピンもずっと独裁政権のようだし。

何がすごいのかと考えて、この映画は記録映画なのだが、そこに移る民衆が映画を超えて革命的なことだと思った。「革命的な」劇映画というのは、エイゼンシュテインを代表に、モンタージュによって、つまり、その映画の力によって革命的な民衆を再組織化しようとする。しかし、『チリの闘い』では、人民によって映画が作られる。映画の推進力が被写体そのものにある。これはドキュメンタリー映画として、間違いなく優れていることだと思った。


今日は、国立近美のトーマス・ルフ展と、山本現代Welcome to the A W E S O M E M A N S I O Nを見てきた。


ルフ展は、おもしろかった。とにかく展示内にテキストが少ないのがいい。ルフ自身が、イメージについて考えるときに、言葉の介在をなるべく抹消しようとしているように思った。イメージによってイメージを考えようとしている。それは最新作に顕著で、文字の形さえも一つのイメージとして、新聞写真に重ね合わされてしまう。中平卓馬と正反対だな、と思った。


山本現代は、品川のはずれの物流センターの上にある。入口は業務用エレベーターである。

小林耕平の映像作品を見た。部屋の中で、様々なものに囲まれてパフォーマンスしている。足元はシーソーのようなバランスゲームになっていて、不安定である。小林の発言も途切れ途切れの不安定なものであり(パフォーマンスは違いを含みながら2度、繰り返される)、この人はバラバラなことをどうやってバラバラなまま行為できるのだろう、ということを考えたいるのだと思った。

宇治野宗輝という作家のサウンドインスタレーションがものすごく楽しかった。ラジオやミキサーなどの家電、車のワイパーや電動ドリル、などのものをギターにくくりつけ、それらがランダムに演奏する。その様子はゴープロで接写で撮影され、リアルタイムでプロジェクションされる。このプロジェクションは演奏と連動してリズミカルなものになっている。音はヘッドフォンを使って聞く。これが重要で、この手のものはその場で音が生成するままほっとかれるインスタレーションが多いような気がするが、この作品の場合、ヘッドフォンによって一つに重なり合った演奏が、ものすごく格好いい。

2016.10.6

実家に帰ってきているので、さいたまトリエンナーレを少し見て回ってきた。


まずは大宮区役所で岡田利規の映像演劇。これがおもしろかった。私は、チェルフィッチュの演劇を生で見たことがない(『現在地』はDVDで見た。あと、一度馬車道のYCCにトークショーを聞きに行ったことがある)ので、これが彼にとってどのような位置付けの作品なのかわからないのだが、単純にこの映像はどうやってプロジェクションしているのだろう、と興味を持った。

一つ目は、地下の食堂の厨房から、横に長い半透明の(微妙に茶色くてカサカサした素材の)スクリーンにおそらく裏から映像を投影している。観客から見て左側に椅子、右側には食卓とその上に乗った茶碗と箸の影が見える。そしてその間に立って台本を手に持ちながら、ただ喋って演技をする女優だけが、影ではなく、モノクロでぼんわりとしかし鮮明に映っている。女優は延々とキャベツの千切りをする仕事ついて語っていて、どうやらそれは昔の話で、なぜ今ここにいるのかはわからないが、この厨房には不釣り合いな家庭的なエプロンをつけていて、普通のそこら辺の女の子のような口調で喋っている。古い厨房の油臭さは会場にも残っていて、ここで何か人間たちの出来事が起こっていた、という事後感が伝わってくる。こういうインスタレーションはよくある。芸術家は過ぎ去ってしまったものに敏感だからだ。

おもしろかったのは二つ目のインスタレーションというか、映像装置で、デュシャンの遺作とお化け屋敷の装置を合体させたような、フェティッシュに溢れた実にエロティックなものだった。一人ずつ見る作品なのだが、暗闇を進むと、ドアが半開きになっている。係員にはドアの外から中を見ろと言われる。意味がよく分からず、ドアに近づいていき、ドアの中を見ようとすると、そこに女の子がいる。うわ!がはは、とつい笑ってしまった。本当にすぐそこに女の子が立っているのだ。映像の。一つ目と同じく女優は台本を手に喋っているのだが、その声が私の耳元に聞こえるようになっている。ものすごい距離感の近さである。女優の映像はぼやけていて、顔は奇妙に暗く所々黒くなっていて、ホラー映画の質に近い。元ネタがあるのかわからないが、女優は「アナンダ」という女の子がこのドアを誰が、なぜ開けたのか、開けちゃダメでしょ、と誰かに問いかけるという話を読んでいる。つまりその話を朗読している女優はアナンダではないわけだが、見ている私はどうしても私が責められているように感じ、半ば背徳感を感じながら興奮している。本当に、ものすごく距離の近い映像である。岡田さんはすごいフェティッシュな人だなあ、と思った(そして、かつて講演会の中で稽古中に女優と演出家が「受精」する瞬間があるんだ、と異様に強調していたことを思い出した)。

これは映像、あるいは映画における覗き趣味的な問題というようなものではなく、なぜなら「覗く」には相応の距離が必要であるが、この作品にはその距離がなく、ものすごい近さで女の子に開けちゃダメでしょ、と責め立てられるのだ。かなりマゾヒスティックな体験である。そもそもこのドアを開けたのは私ではないのに、いつのまにか私がその罪を問われている。これは、作家と観客の共犯関係だろうか。


その後、岩槻の旧民族博物館の会場に移動し、多和田葉子小沢剛アピチャッポン・ウィーラセタクンなどを見た。多和田葉子はまさに小説家が作った、という感じのインスタレーションで、私の周りには学部時代、こういう作品作る人が多かったなあ、と思った。小沢剛の『帰ってきたJ.L』は歴史と作者の調査とフィクションが渾然と混ぜ合わされて愉快なスペクタクルになっていた。

アピチャッポンの掴めなさは本当にすごい。二つのマルチスクリーンを使った胡蝶の夢のような話であり、睡眠と覚醒をめぐる『光の墓』とかなり通底するテーマの作品だったのだが、途中に出てきた「時間が重複する」という言葉が、心に残った。おもしろかった。

外には、目の大掛かりなインスタレーションがあって、ものすごい単純なのだけどこれもおもしろい。だけど内容について他言してはいけない、と言われた。こういうこと、やってみたくなる。

最後にK邸というところで見たインスタレーションは、自意識爆発型の愉快な作品だった。自らが被写体となった写真だらけの空間で、着物をはだけたダンサーがハアハアしながらモゾモゾしてる。会期中ずっとやってるらしい。こういうパフォーマンスに近いこと、自分もやっていた。

ということで、さいたまトリエンナーレは意外と楽しめた。規模が小さくて、国際展らしさがなく、空いている。そして基本的に無料である。

2016.10.2

インランド・エンパイア』を観た。悪夢的な並行物語。これはある娼婦の夢、あるいは妄想で片付けられるような話だろうか。どうやってリンチは一つの脳でこんな映画を思いつくのだろう。


おそらくピエール・ユイグはこの映画を相当参考にしたのだろう。そしてそれを発展的に、複数の人々が同時参加するパファーマンスとして行っている。ある精神病患者の独白が共同悪夢的な物語となり、時間が無数に繋がっていく…。同じ空間に別の物語が平然と並列するのだ。


夜中にすごいものを観てしまった。『遠い触覚』読もう。

2016.9.17

昼から上野方面へ出かけ、3つ展覧会を回ってきた。最初にアニッシュ・カプーア展。これがとてもよかった。カプーアの彫刻体験では、作品に私の知覚が吸収されてしまいそうな気分になる。インスタレーションと建築の間くらいの作品模型が4点あったのだが、そのうちの一つ、階段を上って扉を入っていくと、真っ黒い巨大な半球状の空間が足元に広がっている(足場が半球内の空中に飛び出ている。足場の床は黒く塗ってあった。多分これは重要)作品は、実際に作られたら是非体験してみたい。横に展示してあった黒い彫刻のひたすら暗い「深さ」のようなものを、全身で体感できるだろう。この知覚の「深さ」というのは、カプーアの作品において重要な概念だと思う。人間は「深さ」というものを日常においてあまり知覚しない。「深さ」は「遠さ」とはまったく異なるものである。例えるならば、真っ暗な夜空に吸い込まれそうになる感覚、距離を超えてあちら側に持ってかれそうな。カプーアの作品を見ているとそういう瞬間を思い出す。個人的にこういう作品は好きだ。鏡や光の屈折を用いた世界を多重化するようなオブジェクト作品も、見ていて飽きることがない。理科の授業でプリズムや虫眼鏡を渡されて、ずっと見ていた頃の気持ちに近い。
その後に、近くでやっていた『絵画を見ること』という展示を見た。印象的だった作品は、キャンバスの淵に点々とカラフルなアクリル絵具がポツポツ描かれている作品。荒川修作の初期絵画にも、キャンバスの「際」を意識させる作品がある。展示をしていた建築の2階から外の墓地がよく見えて、おもしろかった。谷中は墓地がとても多い。
最後に、ギャラリーASAKUSAにて『不透明性への権利』。ジャン・ジュネの詩を用いた映像作品。このギャラリーの思想的方針はブレない。『S/N』と『マルホランド・ドライブ』を思い出すような実験映像。