2016.8.25

私が先日受けた大学院の試験の中に「日付というフィクション性」について具体的な事象とともに説明せよ、という問題が出た。その時は焦って荒木経惟の偽日記、写真に刻印された偽の日付についててきとうに書いてしまった。非常に苦し紛れの回答だった。


ということで私は「日付のフィクション性」について考えている。テキスト内現実と世界内現実とは遮断されているという考え方がある。テキストとはテキストでしかない、という。日記をつけていると、私のように怠惰な人間は、経験した出来事をすぐに書くのが面倒なので(私は出先でiPhoneの画面を身過ぎると夕方頃には間違いなく頭が痛くなってしまうので、その場で書くことなど出来ないし、夜はお酒を飲んでしまって明日書こう、とか思ってしまう)後日書いたりする。この時、私は日記のタイトルは必ずその経験をした日の日付けにするようにしているのてね、執筆日とタイトルの日付が異なるということがよくある。これを見たときになんだか僕は期せずしてフィクショナルな日記を書いてしまっているのではないかと思った。

フローベールの『ボヴァリー夫人』には文中、一箇所だけ「9月4日」という日付が出てくるらしい(蓮實重彦の指摘らしい)が、私はもちろんそんなことには気づいていなかった。収穫祭だかなんだかで役人が来た日だろうか?(ボヴァリーと遊び人の貴族が不倫する場面とこの催しの場面が交互に書かれているところ)これも「日付のフィクション性」につながる気がする。しかし、ちゃんと調べてもないし、私はうまく説明することが出来ない。

「8.6」や「8.9」や「8.15」や「9.11」や「3.11」と書くと、年代順に並んでるな、とすぐわかる。これらの歴史的な出来事は以前/以後の結節点として象徴的だ。しかし「以前/以後」など本当にあるのだろうか?日付とはどこに(何に?)その印を刻み込んでいるのだろうか?これも「日付のフィクション性」あるいは「物語性」につながっている気がする。

言語構造そのものは時間を含むことができない。このことも「日付のフィクション性」に関わる気がする。本当か?怪しい。時間の連続体が歴史ではない。

2016.8.19

新宿のK’sシネマで黒川幸則『VILLEGE ON THE VILLEGE』を観てきた。七里圭とのトークショー付き。七里さんのトークは二度目だが(一度目は平倉さんとの「映画以後…」のトーク)やはり話がもっさりしていて、いまいち私にはヒットしない。映画は非常に面白いシーンが多かった。オープニングのエスニックなノイズ、環境音の扱い方が暴力的で好きだった。謎のハエの視点。これ絶対人間以外のものが見ている視点だよな、というショット。幽霊は物語の中にも出てくるが、カメラもまた幽霊化していくような不思議な映像。正確に思い出すことができないのだが、役者の運動(特に主人公の中西を演じる田中淳一朗の多動症的な動き)とやけに時間が遅延するカットつなぎ(ビール缶か何かを投げて受け取るようなシーンだったような気がする)が並存していて、多孔的とも言える幽霊村の量子論的な時間軸の流れを感じた(時間は重力によって歪む)。

見ている途中に何故か『この窓は君のもの』を思い返してていて、青春映画の絶対的に閉じた物語空間というかフィクションの閉鎖性のようなものを強く感じた。どっちも最後は車に乗って去っていくし。切なくなる。また観たい。

メモ

www.youtube.com

デヴィッド・リンチ荒川修作神田橋條治

17分辺り〜 やばいおじさん

西川アサキ「「普通の」言語の中に生きている科学者に対して、リンチは量子論的な世界観に生きている」

保坂和志樫村晴香ベケットに反応しない」

阿頼耶識

メモ

T.A.シービオク『自然と文化の記号論』『動物の記号論

ロマーン・ヤーコブソン 幼児と失語症 一般音韻法則


カルチャロミクス

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01HT2GYII/shorebird-22/

2016.8.15

原宿にあるVACANTというイベントスペースで、『中平卓馬 カメラになった男』を観た。中平卓馬という人は、すさまじい男だと思った。

中平は〈結合〉を求めている。彼にとって「大道」と「Dydo」は結合する。「Casa blanca」と「白い猫」も結合する。横浜の紅白に塗られたタワーと沖縄の紅白に塗られた別のタワーは「全く同じ」である。しかし、荒木経惟と沖縄は結合しない。アラーキーは自分が見たい「沖縄」を沖縄に見る。中平は、東松照明に対して同じ理由から厳しく問いただす。沖縄を全的に捉えることは可能か。

中平の写真を取る姿は恐ろしいほど早い。撮った瞬間、その対象との強すぎる結合から急いで逃れるかのようにバッと立ち去る。決して二度は撮らない。そして、「成功だね」と少年のように笑って言う。これはすごいことだと思った。

写真を取ることによって全く新しい「私」に生まれ変わり続けようとする男。こんなすごい男がいたことに私はただ感動してしまった。本当にただ感動してしまった。

2016.8.14

私はYくんが手に入れた土浦の家を見に行き、火をおこして貝を焼き、カレーを作ってビールを飲んだ。土浦の夜は横浜よりもずっと気温が低くて涼しかった。まだ家はほとんど廃墟のままで、廊下は埃や土でざらざらしていた。庭の生ゴミ捨てには前日に捌いた鶏の残骸が捨てられていて、被せられた枯れ草の中に無数のハエが潜んでいる。そこに石を投げると、ブーンという音が一斉に鳴り、ハエたちが飛び立ち警戒を伝え合っている。トイレの下水がまだ整っていないので、小便はそこに足す必要がある。夜中、私はビールのせいですぐに尿意を催し、リビングの窓から外に出てその生ゴミ捨てに向かうのだが、明かりなどなく、暗闇に無数の生き物たちが潜む気配に怯える。この時、私の足は前に一歩を踏み出すのを躊躇い、暗闇に慣れない眼は必死に二歩先の状況を把握しようと、耳や皮膚の感覚と協同する。しかし、体がすくんでしまい、ようやく生ゴミ捨ての前にたどり着いておしっこを出し始めても、非常に落ち着かない。出が悪いが踏ん張る。土や芝を踏む足の裏の感覚が普段からは考えられないほど敏感になる。これらの身体の感覚は、子供時代に母方の実家(薄暗くてあまり陽の当たらないじめっとした長屋)で夜中、部屋を出て暗い廊下を一人トイレに向かってこわごわ歩いて行き、急いで用を足すあの恐怖にも似ているのだが、そういうお化け的なものへの畏怖というよりは、自分の肉体の中の野生の感覚が生存をかけた環境を探索するために自然の状況に反応している、というような感覚であった。怯えておしっこをしながらこんなことを考えていた。

翌朝、私は庭に出て生ゴミ捨てを見てみると、昨夜の暗闇の中で見えていたあの捉えきれない枯れ草の複雑な凹凸などなく、こんもりと見やすく盛られた草の上に貝殻が捨てられ、ハエが数匹止まっていた。

私はこんなところで暮らしたいと思ったので、土浦のYくんの家への半移住を決意した。