読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2016.9.15

私は、映画がリアルであるとは、どういうことなのか考えている。先日、友人が作った『人間のために』という映画を見るために、京橋のフィルムセンターで行われているpffアワードに行ってきた。私が観た回は二本立てで、『人間のために』と『溶ける』という作品の併映であった。『人間のために』を観るのは結局これで3回目なのだが(おそらく毎回編集のヴァージョンが異なる)、一般的な声として、これと『溶ける』は真逆の映画だと思われたようである。何が真逆か?「リアル」の方向性だと思う。『溶ける』は監督の実体験から得た感覚をある設定に落とし込んだ、普遍的な青春映画である。そこには主人公の「嫌いなもの」がたっぷりと詰め込まれている。ド田舎の高校に通い、周りの友達たちは退屈さを紛らわすためにセックスにのめり込み、一生ここで暮らすのかと思うと死ぬほど嫌になる。とにかく、こんなところは嫌なのだ。出て行きたい、だが、出られない。「田舎の耐えられなさ」を経由して「かけがえのない場所」へと地元が回帰するのは、もちろん青春映画の紋切り型である。紋切り型は「リアル」にとって必要である。「リアル」は作り出さなければならない。そのためには、誰もが共感できる初期設定を決める必要がある。「青春のモヤモヤ」はそのための共同了解である。「風が強すぎて息ができないところ!」などと、田舎の「嫌いなところ」を主人公が一つ一つ叫んで行くシーンが共感可能な「リアル」さを突き抜けた強度を持つのは、なんとなく共有されていた共同了解が暴力的に暴かれて、役を超えた俳優の声や身体そのものが映画を見ている私たちに感じられるからである。しかし厄介なのは、これこそがリアルなのだ、などという愚かな事を言ってはならないということだ。
今朝、私は『ケンとカズ』という映画を観た。恐ろしいまでのリアルさを感じた。すべての俳優たちがその役をやっているのが、私には必然的なものとしか思えなかった。なるほど、映画のリアルさとはこんなに凄いものなのかと恐れ入った。(続ける)

2016.9.14

今朝、私は起きた家からバイトに行くために最寄りの駅まで歩いた。1人で歩いといるときはいつもそうなのだけど、頭の中では取り留めのないことをぽこぽこと考えている。この前の飲み会で話したあの映画の話はどうだとか、最近読んだ批評がどうとか、とにかく、いろいろなことがぽこぽこ浮かんでくる。想起だけではなく、未来のことを想像したりもする。商店街を通っているとき、開店前の準備をしている制服姿の女の子を見ると、あ、昨日のあの子だ、とか、初めて見る顔だなとか思ったりする。と、こんな感じで歩いていくと、目の前に突然駅が現れるのである。これは道の構造の問題かもしれない。この駅は、駅を中心として4本の商店街が放射状に伸びている。僕は真ん中の中央通りをまっすぐひたすら歩いてくるわけだけど、駅に着いた時には、さっきまで家にいてお弁当を作って、猫にかまっていたあの時間から、全く違う時間軸へワープしたような気分になる。これがさらに駅のホームに行くとなおさら感じる。電車を待ちながら、いつの間にここまで歩いてきたんだろう、という不思議な気分になる。

なぜこんな話を書いたのかというと、昨日柴崎友香の『ショートカット』という短編作品を読んで、つまりこういうことかと私が歩きながら納得したからである。柴崎友香の小説の語り手は注意深くもなく、ぼんやりしているわけでもなく、ただよく世界を見ている。と同時にいつも目の前のこととは別のことを考えている。大阪にいながら東京のこと、亮平といながら亮平にそっくりの麦のこと。この、ここにいながらあちらのことを考えている状態の時も、「私」の目は確かにここにあって、ここにある変な細部を見てしまう。

こんなことを書いていたら電車を乗り間違えた。


追記:つまり、「私」は毎分、毎秒、ワープしまくっているということだ。(2016.9.15)

メモ

https://www.amazon.co.jp/来たるべき内部観測-一人称の時間から生命の歴史へ-講談社選書メチエ-松野-孝一郎/dp/4062586266

メモ

http://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=37340


M.ポンティ 幼児 模倣 自己-他者-物(対象)

2016.8.30

今日言われて(答えられなくて)ツラかった言葉

「あなたは言語を身につけてしまっていると言いましたが、どうしてそれが自明なことだと言い切れるのですか?」