2016.10.6

実家に帰ってきているので、さいたまトリエンナーレを少し見て回ってきた。


まずは大宮区役所で岡田利規の映像演劇。これがおもしろかった。私は、チェルフィッチュの演劇を生で見たことがない(『現在地』はDVDで見た。あと、一度馬車道のYCCにトークショーを聞きに行ったことがある)ので、これが彼にとってどのような位置付けの作品なのかわからないのだが、単純にこの映像はどうやってプロジェクションしているのだろう、と興味を持った。

一つ目は、地下の食堂の厨房から、横に長い半透明の(微妙に茶色くてカサカサした素材の)スクリーンにおそらく裏から映像を投影している。観客から見て左側に椅子、右側には食卓とその上に乗った茶碗と箸の影が見える。そしてその間に立って台本を手に持ちながら、ただ喋って演技をする女優だけが、影ではなく、モノクロでぼんわりとしかし鮮明に映っている。女優は延々とキャベツの千切りをする仕事ついて語っていて、どうやらそれは昔の話で、なぜ今ここにいるのかはわからないが、この厨房には不釣り合いな家庭的なエプロンをつけていて、普通のそこら辺の女の子のような口調で喋っている。古い厨房の油臭さは会場にも残っていて、ここで何か人間たちの出来事が起こっていた、という事後感が伝わってくる。こういうインスタレーションはよくある。芸術家は過ぎ去ってしまったものに敏感だからだ。

おもしろかったのは二つ目のインスタレーションというか、映像装置で、デュシャンの遺作とお化け屋敷の装置を合体させたような、フェティッシュに溢れた実にエロティックなものだった。一人ずつ見る作品なのだが、暗闇を進むと、ドアが半開きになっている。係員にはドアの外から中を見ろと言われる。意味がよく分からず、ドアに近づいていき、ドアの中を見ようとすると、そこに女の子がいる。うわ!がはは、とつい笑ってしまった。本当にすぐそこに女の子が立っているのだ。映像の。一つ目と同じく女優は台本を手に喋っているのだが、その声が私の耳元に聞こえるようになっている。ものすごい距離感の近さである。女優の映像はぼやけていて、顔は奇妙に暗く所々黒くなっていて、ホラー映画の質に近い。元ネタがあるのかわからないが、女優は「アナンダ」という女の子がこのドアを誰が、なぜ開けたのか、開けちゃダメでしょ、と誰かに問いかけるという話を読んでいる。つまりその話を朗読している女優はアナンダではないわけだが、見ている私はどうしても私が責められているように感じ、半ば背徳感を感じながら興奮している。本当に、ものすごく距離の近い映像である。岡田さんはすごいフェティッシュな人だなあ、と思った(そして、かつて講演会の中で稽古中に女優と演出家が「受精」する瞬間があるんだ、と異様に強調していたことを思い出した)。

これは映像、あるいは映画における覗き趣味的な問題というようなものではなく、なぜなら「覗く」には相応の距離が必要であるが、この作品にはその距離がなく、ものすごい近さで女の子に開けちゃダメでしょ、と責め立てられるのだ。かなりマゾヒスティックな体験である。そもそもこのドアを開けたのは私ではないのに、いつのまにか私がその罪を問われている。これは、作家と観客の共犯関係だろうか。


その後、岩槻の旧民族博物館の会場に移動し、多和田葉子小沢剛アピチャッポン・ウィーラセタクンなどを見た。多和田葉子はまさに小説家が作った、という感じのインスタレーションで、私の周りには学部時代、こういう作品作る人が多かったなあ、と思った。小沢剛の『帰ってきたJ.L』は歴史と作者の調査とフィクションが渾然と混ぜ合わされて愉快なスペクタクルになっていた。

アピチャッポンの掴めなさは本当にすごい。二つのマルチスクリーンを使った胡蝶の夢のような話であり、睡眠と覚醒をめぐる『光の墓』とかなり通底するテーマの作品だったのだが、途中に出てきた「時間が重複する」という言葉が、心に残った。おもしろかった。

外には、目の大掛かりなインスタレーションがあって、ものすごい単純なのだけどこれもおもしろい。だけど内容について他言してはいけない、と言われた。こういうこと、やってみたくなる。

最後にK邸というところで見たインスタレーションは、自意識爆発型の愉快な作品だった。自らが被写体となった写真だらけの空間で、着物をはだけたダンサーがハアハアしながらモゾモゾしてる。会期中ずっとやってるらしい。こういうパフォーマンスに近いこと、自分もやっていた。

ということで、さいたまトリエンナーレは意外と楽しめた。規模が小さくて、国際展らしさがなく、空いている。そして基本的に無料である。